「パンの香りに誘われて」 ――古民家の床下にいた地縛霊の話

家にまつわる怪談

「パンの香りに誘われて」 ――古民家の床下にいた地縛霊の話

私は、30代のパン職人です。
東京の喧騒に疲れ、数年前、山あいの小さな町に引っ越しました。
古民家を買い取り、自分で改装して、小さなパン屋を始めたのです。


築70年のその家は、初めて見たときから不思議な雰囲気がありました。
陽が差し込まない一角や、誰もいないのに冷たい空気が流れる部屋。
でも私は「古い家ならそんなもんだろう」と気にもせず、毎日せっせと木を削り、壁を塗り、床を張りました。


パン屋をオープンしてからしばらくは、地元の人がぽつぽつと来てくれました。
ありがたいことに、評判も上々でした。
けれど…ある日を境に、私は異変に気づき始めたのです。


夜、厨房で仕込みをしていると、背中にじっとした視線を感じる。
物音ひとつない店内で、棚からカップがカタンと落ちる。
朝、玄関を開けると、床にうっすらと濡れた足跡がついていることもありました。
もちろん、誰も入っていない。鍵も閉めたまま。


決定的だったのは、ある朝のことです。
焼き立てのパンを並べていたら、奥から子どもの笑い声が聞こえたのです。
けれど振り返っても、誰もいない。
私はひとりです。誰も、いないはずなのに。


怖くなって、家の古い図面を調べたところ、驚く事実がわかりました。
今パンの作業場にしている部屋は、もともと「仏間」だったのです。
そしてその真下には、かつて土葬された人の遺体を安置していた「土室(つちむろ)」があると…。


近くの神社の神主さんに来てもらい、事情を話すと、彼は静かに頷いて言いました。
「この家には、埋められたままの者がおる。動かしたのが、目覚めのきっかけやろうな」


どうしても怖くて、私はその夜、パンを焼くのをやめました。
けれど…午前3時、眠っていた私の耳元で、はっきりと声がしたのです。

「…あの匂い、もっと、かいでいたい」


それは、恨みや怒りではありませんでした。
寂しそうで、でもどこか嬉しそうな声でした。


その日から、私は厨房の隅に、小さな皿にパンをひとつ置くようにしました。
それからというもの、不思議と物音も声もぴたりと止んだのです。
まるで――誰かが、静かに満たされているかのように。


「その子は、ここが好きなんだと思うよ」
神主さんがぽつりとそう言った言葉が、今でも心に残っています。


パンの香りに誘われて、現れたあの子。
もしかしたら、この家を去ることなく、今もそばにいてくれているのかもしれません。


そう思うと、不思議と怖くはないのです。

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