営業という仕事柄、見知らぬ町へ出向くことは多いのですが、あの日ほど後悔したことはありません。
三十二歳になって、初めて味わった「人ならざるもの」との遭遇でした。
◆見知らぬ集落
出張で山あいの町へ行った帰りのことです。
車で移動していたのですが、ナビの案内がおかしくて、気づけば狭い林道に入り込んでいました。
舗装も途切れがちで、左右には背の高い木々。車のライトに照らされた枝が、妙に生き物じみて揺れていました。
やっと集落らしき場所に出た時には、すでに夜九時を回っていました。
人の気配はなく、街灯もまばらで、どの家も窓を固く閉ざしていて息苦しいほどの静けさでした。
◆長い影
そのとき、道の先に人影が見えました。
背の高い女でした。街灯の下に立っていたのですが、その姿はどう見ても異常でした。
……二メートルはあったのです。
私は車を減速させながら、目を凝らしました。
細い体。異様に長い腕。首がやけに小さく見えるほどの背丈。
女は下を向いて、ただ立っていました。髪が長く、顔はよく見えません。
一瞬、通報しようかと思いました。
けれども、もし地元の人だったらどう説明すればいいのか……そう考えてしまい、ただ車を進めました。
◆すれ違いざま
女の前を通り過ぎる瞬間、背筋が凍りつきました。
窓のすぐ横で、その女が……こちらを見ていたのです。
白目がちに見開いた大きな目。
笑っているようで、泣いているようでもある口元。
そして――口の端から、だらりと赤黒いものが垂れていました。
息を呑むと同時に、車を急発進させました。
バックミラーを見てはいけない、そう思ったのですが……見てしまったんです。
そこには、信じられない光景がありました。
女が走ってくる。
二メートルもある体で、四つん這いになり、獣のように。
◆追われる
あり得ない速度でした。
車のテールランプの赤に照らされながら、四つ足の姿勢で迫ってくるその影。
車体を揺らすほどの振動が後ろから伝わってきて、私は絶叫しながらハンドルを握りました。
集落を抜け、林道に入った時、ふと気づきました。
……音が止んでいる。
バックミラーを見ると、もう何もいませんでした。
ただ、木々が風もないのにざわざわと揺れていました。
◆帰り道の異変
何とか元の国道に出て、ようやく人心地がつきました。
それでも、ホテルに戻るまで心臓は落ち着きませんでした。
翌朝、取引先に向かう途中で地元の人と雑談になり、昨夜道に迷ったことを話しました。
すると、その人は急に顔を曇らせて、低い声でこう言ったのです。
「……あのあたりは、夜は通っちゃいけん。女を見たやろ」
私が言葉を失っていると、その人は続けました。
「昔な、背の高い女が人をさらったって話があるんよ。夜道で会うと、ついて来て、家まで入ってくる……」
私は必死に笑い飛ばそうとしました。
でも、昨夜の、窓のすぐそばにあった白い目と赤黒い口……あれは幻じゃなかった。
◆今でも
それ以来、地方出張のたびに夜道を通ることが怖くて仕方ありません。
街灯に人影が立っているだけで、全身が冷たくなるのです。
あの二メートルの女は、今もあの集落のどこかで、誰かを待っているのでしょうか。
……それとも、あの夜、私の車にすでに乗り込んでしまっていたのか。
そう考えると、部屋の隅から視線を感じることがあります。
今も――背後に。