私は二十八歳の事務職です。毎日、車で通る道があります。通勤に使うその道は、山のふもとを通っていて、あまり人通りはありません。街灯も少なく、夜は真っ暗になるような道です。
そこに、ある日、花が供えられていました。小さな花束と、空のペットボトル。その横には、焼け焦げた跡が黒く残っていました。事故があったことはすぐに分かりました。
その前を通るたびに、なんとなく胸がざわつくような気がして、ある夜、私は車を止めて、降りて、一礼をしました。手を合わせるまではしませんでした。ただ、軽く頭を下げただけです。――ほんの、それだけでした。
不気味な変化
それからです。
会社の帰り、またその場所を通ったとき、ハンドルを握る手が汗でじっとりと濡れていました。冷房をつけているのに、背中に熱がこもって息苦しい。バックミラーをのぞいたとき、後部座席に誰かがいるように見えました。黒い影。髪が垂れているように見えました。
振り返る勇気はなく、そのままハンドルを強く握って前だけを見て、家まで帰りました。
夜、ベッドに横になったとき、窓の外で車のブレーキ音がしました。キィィ、と、耳を刺すような音。そのあと、ドン、という鈍い衝撃音。私は心臓が止まるほど驚いて、カーテンを開けました。
そこには何もありません。車も、人影も。ただ、道路の上に、供えられていたはずの白い花が、一輪落ちていました。
深まる恐怖
次の日、出勤のため車に乗ろうとすると、フロントガラスに手の跡がついていました。泥で汚れたような、人の手のひら。五本の指がくっきりと見えました。
職場でその話をすると、同僚が「その道、事故が多いんだよ」と言いました。ブレーキ痕が消えない場所で、昔から何度も車が突っ込んで、人が亡くなっている。そういう話でした。
そして、私は思い出しました。子どものころ、祖母から聞いたことがあります。
――道路脇に花が置かれている場所では、軽い気持ちで手を合わせたり、頭を下げたりしてはいけない。向こう側にいるものが、それを「呼ばれた」と勘違いしてついてくるのだ、と。
最悪の夜
それを聞いてから、私はなるべくその道を避けるようにしました。でも仕事が遅くなった日、どうしてもそこを通らなければなりませんでした。
深夜、ハンドルを握って進むと、あの花の前に差しかかります。車のライトに照らされて、花束が見えました。風もないのに、花がカタカタと揺れています。
その瞬間、エンジン音にまぎれて、後ろから声がしました。
「……ありがとう」
女の声でした。耳もとで、はっきりと。私は叫びながら車を止めました。振り返ると、後部座席に、あの花を胸に抱えた女が座っていました。髪が濡れて、顔は血に染まって。黒い瞳だけが、こちらをじっと見ていました。
その目が、私を捕まえたように離さない。声も出せず、体も動かず、ただその視線に縫い止められていました。
結末
気がついたら、朝でした。ハンドルに突っ伏して眠っていたのです。車はエンジンがかかったままで、道路の真ん中に止まっていました。幸い事故にはならなかった。でも後部座席には、花びらが一枚落ちていました。
それ以来、その道は絶対に通らないようにしています。花を見ることも、一礼することも、もう二度としません。
けれど、ときどき夜になると、窓の外からブレーキ音と衝突音が聞こえてきます。
そして私は思うのです。あの女は、まだ私のそばにいるのではないか、と。