彼女と初めて出会ったのは、職場の近くの喫茶店だった。
雨の日、たまたま隣り合わせた席で、忘れた傘を貸したのがきっかけだった。
名前は「絵美(えみ)」。
少し控えめだけど、よく笑う子で、すぐに惹かれた。
連絡先を交換し、何度か会ううちに自然と付き合い始めた。
それから3年。
何度も旅行に行き、誕生日を祝い合い、両親に紹介しようともした。
でも、絵美はいつも「今はまだ……」と、微笑んで首を振った。
そのたびに、なぜか少しだけ寒気がした。
それでも、彼女が大好きだった。
仕事で疲れていても、彼女と会えば心が軽くなった。
だから、3年目の記念日に、プロポーズしたんだ。
指輪を渡すと、絵美は泣きながら「ありがとう」と言ってくれた。
でも、その夜を境に、彼女は――いなくなった。
◆
LINEは未読のまま。電話はつながらない。
いつもの待ち合わせ場所にも来ない。
不安になって、絵美が住んでいたアパートに行った。
…でも、そこにいた管理人はこう言った。
「え? その名前の方は、いませんけど」
「…数年前に亡くなった娘さんのことでしょうか?」
意味が分からなかった。
管理人が見せてくれたのは、数年前の新聞の切り抜き。
“24歳女性、アパートで死亡。事故か自殺か判断つかず”
そこに載っていたモノクロの写真――
……絵美だった。間違いなく、彼女だった。
震える手でスマホを見返した。
3年間のメッセージ、写真、通話履歴。
でも、よく見ると――どれにも、絵美の顔が映っていない。
2ショットのはずの写真は、俺ひとり。
音声付きの動画も、俺の声に対して返事がない。
……いや、そんなはずはない。
一緒に遊園地に行った。
夜の観覧車で、彼女が怖がって手を握ってきたのを、はっきり覚えてる。
でも、それも全部……俺だけが感じてたのか?
◆
それから数日後、俺の部屋に指輪の箱が届いた。
差出人不明。中にはあのプロポーズの時の指輪と、一枚の紙切れ。
「ありがとう。これで成仏できます」
「でもあなたが忘れたら、また会いに行きますね」
――これは、脅しか?
いや、彼女なりの感謝か……?
でも、それからも、ときどき変なことが起こる。
風呂場の鏡がくもると、誰かの指でなぞったような跡がある。
ベッドに、俺以外の重みが残ることがある。
夜中、キッチンから食器の音がすることがある。
……でも、誰もいない。
そして、先日。
寝ていたら、夢の中で絵美が立っていた。
「まだ、忘れてないよね?」
その声だけは、現実だった。
目が覚めたら、枕元にあの指輪が置かれていた。
俺が渡したはずの、指輪が。
もう、どうすればいいのか分からない。
忘れてはいけないのか?
それとも、忘れなければ、俺の方が“向こう”に引っ張られるのか。
彼女が生きていなかったことより、
――まだ、終わっていないことの方が、よほど怖い。